内田麻理香ブログ:KASOKEN satellite

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毎日新聞:今週の本棚『世界一美しい数学塗り絵』書評寄稿

 12月18日(日)の毎日新聞に、『世界一美しい数学塗り絵』の書評が掲載されています。

今週の本棚:内田麻理香・評 『世界一美しい数学塗り絵』=アレックス・ベロス、エドマンド・ハリス著 - 毎日新聞

 対象本はこちらです。

世界一美しい数学塗り絵-宇宙の紋様

世界一美しい数学塗り絵-宇宙の紋様

 

  大人の塗り絵が流行っているとはいえ、よくこの本を出版してくれたなあと。「数学は美しい」というフレーズはよく耳にしますが、私はそれを実感したことがない。以前、『考える人』の「数学は美しいか」という特集で、マガジン評を書きましたが

kasoken.hatenablog.jp

 この数学は美しい、ということを、私は死ぬまでに体感する機会があるのか、と思っていました。その願いを叶えてくれたのが、今回書評してくれたこの本です。

 数学の研究者(プロ、アマを問わず)や、世界的デザイナー(三宅一生や、カール・ラガーフェルドは、数学や数式をテーマにしたコレクションを出しています)でない者でも、数学の美を実感し、しかも創り出すことができる。

 塗り絵で大げさな、と思われるかも知れませんが、素人でも「それなりの作品」ができてしまうのです。数学塗り絵という形で、選ばれた人だけではなく、多くの人に数学の美への門戸を開いている。これは数学という学問だからこそ、でしょう。書評にも書きましたが

自分勝手に色を選んだお遊びに過ぎないのに、作品らしく仕上がるのはなぜだろう。おそらく、単なる自己満足だけではない。自分のオリジナルだからと評価が甘くなるのも否めないが、考えてみれば、これは数学塗り絵であるからもっともなことなのだ。本書に示されている紋様には、一定のルールがある。ランダムに色を塗っているつもりでも、知らず知らずのうちに、そのルールを体感し、結果的にそれに従うことになる。ルールに則った色づかいであるならば、美的効果が誕生するのも当然のことだろう。その意味で、本書は身体を動かすことで、数学の一端を知ることができる希有な書だ。

  というわけです。

 例えば、私の塗り絵ですが(塗り絵がお仕事に繋がるのだから、幸せな話だ)

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 これは、表紙にある「曲げられた鉄格子」をお手本通りに塗ってみたもの。絵心がないもので、最初はお手本に従う。

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これは四面体の星。対称性に則って5つの合同な正四面体を組み合わせた図→隣り合う頂点を線分で結ぶと、正十二面体になる、という図とのこと。これも表紙カバーにある見本通りに塗ったつもりですが、いつの間にか自己流になっている。まあこれはこれで良いかなと。

 そして、だんだん図々しくなり、オリジナルの色塗りもしたくなってくる。

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  これは正七面体のタイル張り。正六面体と違って、正七面体になると平面ではタイル張りできなくなる。曲面ならば可能、ということで二次元で現そうとすると、中心から離れれば離れるほど小さくなる。このあたりになると、もう好きな色で塗っているだけ。

 普段、絵を描かない人にとっては、良い気分転換にもなるし、しかも数学の知識まで知ることができるというお得ぶり。訳者の秋山仁氏の巻末解説がありがたい。各ページの元の解説はあまり親切とは言えませんが、巻末で「そもそもフラクタルとは」などの全般的なわかりやすい説明をしてくれますし、タイル張りとスペインのアルハンブラ宮殿のお話などを絡めてくれて、ここだけでも楽しめます。

 色鉛筆とともに傍らに置いておいて、塗り絵をするというのも楽しいと思います。私の色鉛筆は、ステッドラーの水彩色鉛筆(48色)です。色数の多い色鉛筆って、持っているだけで幸せになりません?

ステッドラー 水彩色鉛筆 カラトアクェレル 125 M48  48色

ステッドラー 水彩色鉛筆 カラトアクェレル 125 M48 48色

 

 

毎日新聞「今週の本棚」『2016 この3冊』 

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 平成28年12月11日(日)の毎日新聞に、書評員が「今年の3冊」を選ぶ恒例の企画に寄稿しました。今回は、どこの書評にも寄稿できなかった本(タイミングが合わず……などの理由で)を3冊選ばせて頂きました。

  有名人の違法薬物使用に関するニュース、カジノ合法化の議論など、依存症(アディクション)にまつわる話が世間を騒がせています。そのたびに、依存症者は「意思が弱い」「だらしがない」「快楽を求めているだけ」という眼差しが露わになっているように思えます。

 まず、そのアディクションとはどのような病なのか、という基本をおさえておくのに適切な入門書がこちら(今年出版されたの本ではないので紹介できませんでしたが)。

人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション

人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション

 

  その者が抱えるストレスやその苦痛を一時的にでも緩和してくれる薬物(アルコールやニコチンも)・行動(ギャンブルなど)の嗜好に出会うと、「有害性は認識しているにも関わらず」、自らの苦痛を自力で軽減(自己治療)するために繰り返し使用するようになった結果、依存症になる……というのが、自己治療仮説です。

 依存症になってしまうと、脳の回路など、既に心身が変化してしまっているので、自分の意思でやめようと思っても最早コントロールが効かない。だから、依存症者を責めても意味がありません(例えば、他の疾病であれば患者に対して「なんで病気になったんだ」と責めることはしないですよね。「自己責任」と言う人もいるようですが……)。

 ましてや、自己治療のための依存物(行動)であるならば、依存の対象を取り上げるだけでは、治療に繋がらないこともわかるかと思います。なぜなら、ストレスや苦痛が存在し続けるならば、「溺れている人から浮き輪を取り上げる」ことになってしまう。「このままでは死ぬ」「脳が萎縮する」などの脅かしも、たいして意味はないでしょう。自分を責めて自暴自棄になるか、下手をすると自死を選択してしまう可能性もある。依存症者の治療は極めて難しい。

 その自己治療仮説を一歩押し進めたのが、こちら。

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

 

  依存症は、自分の持つ、苦しみを「相談する」「協力してもらう」など、人に頼って解消するのではなく、人を信じられないために「物」や「行動」に頼ってしまうからではないかという「信頼障害仮説」を提唱しています。臨床医である著者は、世間に流布する依存症者のイメージと、自分が接してきた依存症者があまりにもかけ離れていることに違和感を抱き、本書を著したと書いています。

 早期に「薬物はいけません」的な啓蒙活動をしても、事後アンケートをとると、薬物に抵抗感が薄い生徒たちがいる。それは孤独へのサインだということです。虐待など目に見えやすい機能不全家族の場合もあれば、一見何の問題がないように見えたとしても、見えない生きづらさを抱えている場合がある。それを著者は「明白な生きづらさ」「暗黙の生きづらさ」と二種類に分けています。

  そして2冊目、

アディクションと加害者臨床―封印された感情と閉ざされた関係

アディクションと加害者臨床―封印された感情と閉ざされた関係

 

  こちらは、加害者臨床の立場から、あらゆる事例の事例を「アディクション」の一種ではないかと見なし、複数の共著者がそれぞれの立場から論を進めていきます。

 例えば、ハラスメント。パワーハラスメントの加害者は、自己評価が低く、自分を肯定して欲しいがために弱者に対してハラスメントする。そのときは、鬱屈した自信のなさが晴れて気分が良くなるので、その結果、嗜癖行動となる。その嗜癖行動を繰り返しているのがハラスメントなのではという指摘は「なるほど」と膝を打ちたくなりました。このように、身近な事例もアディクションの一種かもしれないと考えると、加害者側にせよ、被害者側にせよ、「人ごとではない」と思えるようになるのではないでしょうか。

 このように一筋縄ではいかないアディクションの問題。刑罰による厳罰化など単純な方針では、解決にはつながらないことは、容易に想像つくかと思います。人間関係や社会の歪みがもたらしているが依存症であるならば、「これは本当に病なのか」という疑問さえ湧いてきます。

 依存症者、家族ほか当事者の自助グループも成果を上げていると思いますが、そこに新たな切り口の一つとなるかも? と私が思うのが、3つめに紹介した「オープンダイアローグ」です。

オープンダイアローグ

オープンダイアローグ

 

  オープンダイアローグは、フィンランド統合失調症の治療で目覚ましい効果を上げている手法です。日本では、斎藤環氏がいち早く注目し、オープンダイアローグの伝道師として活躍されています。この本は、斎藤氏が毎日新聞の書評でも取り上げています。

今週の本棚:斎藤環・評 『オープンダイアローグ』=ヤーコ・セイックラ、トム・エーリク・アーンキル著 - 毎日新聞

 オープンダイアローグは、患者と治療者だけという関係だけで閉じず、社会全体が患者を受容するという思想に基づきます。このとき、患者が「この病の専門家」になり、治療者が「患者という専門家」に話を聴くため、ふつうの専門家ー非専門家関係が逆転しているような形になります。患者が自分の病を治療者に取り上げられることなく、主体性を発揮した個人になるのです。

 だからといって、治療者が専門性を放棄するわけではない。むしろ、治療者はこれまでの専門性に加えて、「オープンダイアローグを遂行するための高い専門性」が求められるので、より高い専門性を身につける必要があります。

 オープンダイアローグは、(1)非専門家と見られていた者が、主体性を取り戻して専門家になる (2)専門家同士で対話する、という形なので、サイエンスコミュニケーションのひとつの理想形が実現したというように私は見ています。これが、今、課題が山積しているアディクション関連問題の解決の一助になるのではないか、と。

 もちろん、フィンランドで上手くいったからといって、日本に輸入しただけで同じように成功するとは簡単に期待できません。包摂するコミュニティをつくる、といっても、日本特有のムラ社会を復活させるだけでは、むしろ逆効果だと思われます(特に、アディクションが人間関係、信頼関係がもたらす病であるならば)。

 ただ、関係性の歪みがアディクションを生むのならば、多様な背景を持つ人々をコミュニティを何らかの形で創出することが重要だろうと考えます。

毎日新聞「今週の本棚」書評寄稿『夢みる教養:文系女性のための知的生き方史』

 11月6日の毎日新聞の書評欄に、書評(短評)を寄稿しました。対象本はこちらです。

夢みる教養:文系女性のための知的生き方史 (河出ブックス)

夢みる教養:文系女性のための知的生き方史 (河出ブックス)

 

  フェミニズムの視点から、文系女性にとっての教養はどう捉えられてきたか、そして文系女性は教養をめぐってどのように見られてきたか・扱われてきたかを描いた一冊です。

 帯に「女性はいつも、文化のお客様!?」と書かれていますが、上記の視座から見ると、実際女性はその通りであった、その構造は今も続いているのではないかと、はっとさせられます。

 日本における教養は、大正時代から見ると、まずエリート層に限定された人格主義があり、続いてその反発としてのマルクス主義が席巻します。大正人格主義では、古典として人文書を読むことが流行していたのですが、マルクス主義の後は出版不況となります。そこで注目されたのが、女性たちです。女性たちが読書によって教養を身につけることが推奨されますが、これはあくまで「読者」として歓迎されただけで、書き手になる道は閉ざされていました。雑誌「新女苑」では、読者投稿欄がありましたが、そこで選者として川端康成が果たした役割が詳細に描かれていて大変興味深い。詳しい話は本文を読んで頂きたいところですが、川端、なかなか罪深い……。もちろん、彼だけが悪いのではなく、時代の空気を反映していただけなのでしょうが。

 女性が職業人として自立するための「教養」は巧妙に排除されていたわけですから、職業に結びつく実学は女性の教養のうちに入りません。でも、戦時中は男性が少なくなるため、医師や科学者という職業婦人ももてはやされます。それと同時に、子を産み育てる女性としての大切さも強調され、国策として女性は調整弁として扱われるようになるのです。要は、男性が戦争から戻ってくるまでは職業婦人として、戻ってきたら家庭に入りなさいという意味。

 戦後の文学部の女性化、カルチャーセンターの流行、「自分磨き」の流れも面白い。著者は決してこれらを皮肉や揶揄の視線で見るわけではなく、女性が懸命に学問を身につけても「お客様」にしかなれない構造が未だに存在していることを露わにしてくれます。

 また、昨今は「役に立つ/役に立たない」学問について問われることが多いですが、戦後間もなくは「役に立たない」は褒め言葉でした。それは、「戦争の」役に立たないという意味だったため。今の「役に立たない」の意味合いとはかなり異なりますね。

 書評の最後に書きましたが、いまの理系女性応援の風潮と、戦時中の女性動員の構図が似ているようにも感じました。人口減少に伴い、これ以上増やせない男子学生に変わり、女子学生の理系への参入が推奨されていますし、実際あれこれアクションが行われています。ただ、これも「働き手」としては歓迎されてはいても、彼女たちが管理職や指導的立場になることまで求められているのでしょうか。
 その現在の理系女性応援企画でも「モテすぎる」とか「美しすぎる」とか疑問符をつけたくなるようなキャンペーンも少なくありません。これ、ひょっとしたら戦後の女性の教養はが「上昇婚の手段」(美智子皇后ロールモデル)として扱われていた影響が色濃いのかもしれない……など、あれこれ考えてしまいました。

 影響が色濃い、といえば、日本の「教養人」のイメージは、大正の教養派(ラファエル・フォン・ケーベルにはじまる、夏目漱石、阿部次郎、和辻哲郎寺田寅彦などなど)から受け継がれているのかなあとも。このイメージは人によって違うでしょうが。

 まあこんな感じで、中身が濃い一冊なので、文系女性だけでなく、日本の教養、学問のあり方全般まで思いを巡らせることができる、刺激的な書です。

Eテレ『すイエんサー』シリーズ・DVD-BOX

 Eテレ『すイエんサー』シリーズのDVD-BOXのご紹介&宣伝。頂戴したのがかなり前なのに、今さらになってしまって申し訳ないです、関係者の皆様。自分が出演した映像を見るのは、気恥ずかしくて、反省だらけで、なるべく避けたい……と思っていたのですが、時間が経ってようやく冷静に見ることができました。そもそも、私のような一般人が市販されるDVDに収録されているって、有り難すぎるし、今後もないでしょう。改めてお礼申し上げます。

 謎の科学(?)エンターテインメント番組。視聴者の皆さんからお寄せいただく、日常生活の中で抱くちょっとした疑問や思いをテーマに、MCとゲスト、「すイエんサーガールズ」が体当たりで挑み、解き明かしていきます。皆さんも是非一緒に考えてください。

 『すイエんサー』は、生みの親の村松秀氏によって、その制作の背景も含めて書籍化されています。

女子高生アイドルは、なぜ東大生に知力で勝てたのか? (講談社現代新書)

 以前、こちらのブログでも紹介しました。

kasoken.hatenablog.jp

 映像版『すイエんサー』は、3シーズン(6巻×3セット)発売されています。テレビ番組、書籍、DVDいずれもサイエンスコミュニケーションのお手本として勉強になります。

  パイロット版&第1シーズンは、AKB48だったんですよね。私が「失敗の達人」として登場する回は

「イ」の巻

  • 必ず失敗するお料理キッチン! 中華あんかけ編
  • 必ず失敗するお料理キッチン! フルーツゼリー編
  • 必ず失敗するお料理キッチン! ケーキ編
  • 特典映像:必ず失敗するお料理キッチン! マヨネーズ編

 です。挑戦する女の子たちが台本なしでガチで挑戦、自分の頭でぐるぐる思考しながら正解を見つけ出すという、「科学のプロセス」を見せる番組スタイルは、このときから確立しています。

 あとで驚いたのが、パイロット版(特典映像の「マヨネーズ編」)で渡辺麻友さん(個人的にかなり好きなアイドル)と共演(?)していたこと。不覚すぎる(当時も可愛いなあとは思っていたけど。みんな)。

 ブレイク直前のAKB48のメンバーが科学の問題にチャレンジする姿を見ることができる、という意味でも貴重かも?

  こちらは第2シーズン。メンバーが、雑誌「ピチレモン」のモデルに交替になり、「すイエんサーガールズ」になりました。私が登場しているのは

「す」の巻:超ビックリ! こんな料理のスゴ技があったとは!?

  • たった1日だけで、2日目のおいしいカレーの味を作りた〜い!

「イ」の巻:「失敗の達人」が立ちふさがる!

  • 必ず失敗するお料理キッチン! オムライス編
  • 必ず失敗するお料理キッチン! 茶碗蒸し編
  • おもちをビヨ〜ンとできるだけ長〜くのばしたぁ〜い!
  • 必ず失敗するお料理キッチン! シュークリーム編

「エ」の巻:さあ! とにかくチャレンジしてこいや〜!

  • 頭がキーンってなっちゃうのをなんとかした〜い!!

 わたくし、「失敗の達人」がすイエんサーガールズたちに嫌がられているのが、ありありとわかりますね……。だって、収録時間が長くて帰るのがいつになるかわからなくなりますもの(彼女たちは、台本がないどころか、当日まで何のテーマかも知らされていない)。自分よりも2回りも年下の美少女たちに「また出たー」的に扱われるのは、なかなかキツいものがありますが、これもスタッフの皆様が上手くキャラを作って下さったおかげでしょう。

 このDVD-BOXの楽屋トークでも、すイエんサーガールズたちに「『失敗の達人』、登場するとき怖いよねえ」「『大失敗ですねえ』『どうでしょうねえ』ばかりで何も教えてくれない」とかあれこれ散々な言われようで笑いましたが、「でも、癒やし系?」「小動物系?」とかフォローも入れてくれました。みんな優しい。

 改めて見るとわかりますが、すイエんサーガールズたちが「閃いた」ときは、はっと表情が変わるんですよね。当然も当然。だって、実際に一生懸命考えているんだから。そのリアルな様子を見るから、視聴者も彼女たちと同じ気持ちになって、一緒に体験している気分になるのでしょう。

  こちらは第3シーズン。私が出ているのは

「イ」の巻:スイーツの超ワザに挑戦だっ!

  • マンガのようにふっくら分厚いホットケーキを焼きたぁ〜い!!

「ん」の巻:お料理の超びっくりなスゴ技に感激!

  • 必ず失敗するお料理キッチン! ハンバーグ編
  • メッチャ味のしみこんだおでんをカンタンに作りた〜い!!

 もう、この頃になると、すイエんサーガールズたちが番組を通じて鍛えられているので、挑戦する問題もハードルが高くなっています。収録のときを思い出して、私も「ごめんね……」という気分になってくるくらい、難しい。

 このシーズンでは、「東京大学とのガチンコ対決」が収録されていて、これに続く大学等への挑戦状シリーズの始まりを見ることができるのも貴重ではないかと。

 見直して改めて思うのは、このDVD-BOX、家庭や学校(小学校、中学校くらい)などにあると、科学教育の適切な教材になるのは確実(親子共に)。一時停止しながら「どう思う?」ってみんなで考えれば、すイエんサーガールズやAKB48のメンバーの悩む気持ち、最後の「わかった、嬉しい!」という喜びも一緒に体験できる。科学の醍醐味を味わうことができるはずです。

 

毎日新聞「今週の本棚」『こども服の歴史』書評寄稿

 本日の毎日新聞に書評を寄稿しています。大書評(通常より文字数が多い)です。

今週の本棚:内田麻理香・評 『こども服の歴史』=エリザベス・ユウィング著「大人服をも自由にしたこどもと衣服」

 対象本はこちら。

こども服の歴史

こども服の歴史

 

  スワドリングという布でぐるぐる巻きにされていたこどもが、解放されてファッションリーダーにまでの、英国を中心としたファッション史を丁寧に追った書。最初はテーマが面白そう、表紙も挿絵も可愛い! と気軽に手に取った本でしたが、「こども服」という切り口で見ると、知っていたはずの歴史も違った様子で浮かび上がってきます。

 個々のエピソードも興味深いのですが、歴史との絡みがなるほど、と唸らされるので2,000字にはまとめきれなかったようにも思えます。専門用語が多いですが、巻末には解説がありますし(それでもわからないときは画像検索! 楽しいです)、ぜひ本の方もご覧下さい。

 紙面には図版も掲載されています。

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 左はフランス革命後のこども服の「革命」で男の子の長いズボン、女の子の胸下切り替えのワンピースが登場。これが大人の服の解放にも繋がります。フランス革命前に、まずジョン・ロックの思想を受け継いだ、ルソーの『エミール』で広まった「自然に帰れ」の思想によって、労働者階級の服装がこども服に取り入れられたと。そういえば、マリー・アントワネットもプチ・トリアノンでは「田舎風」を導入していましたね。

 右はセーラー服。こども服の黄金時代は、産業革命後に勃興した中産階級が「家具のようにこどもを飾り立てる」ことが始まったため、華美な方向に元通り。その親の見栄の象徴が英国海軍の制服であったセーラー服。当時の英国の帝国主義の威信も示すこともできますから。これは中産階級だけでなく、全階級に広まったみたい。でも、実用的でもあり、こどもにも気に入られたため、こどもに止まらず現在にも続いている希有な例。

 そんなセーラー服に対して『小公子』のセディの服も大流行したけど(ベルベットのスーツ。親に巻き毛にされた気の毒な子もいたとか)は、こどもには不評で廃れてしまったとか。

 童話などの登場人物がこども服のファッションリーダーになった例として『不思議のアリス』が挙げられていて、日本発のロリータファッションもそういえばアリスがお手本だったなあと考えると興味深い。彼女たちも「着たい服を堂々と着る」代表者だと思って。書評にも書いたのですが、確かにTPOは必要かもしれないけど、もっと着たい服を着る、という自由をこどもだけでなく大人も持っても良いんじゃないかと思わせてくれます。

 そんなわけで、この書評を書いたすぐ後に乗った飛行機で、「アリス・イン・ワンダーランド」観ました。

  アリスは、しがらみを突破する自由な少女(女性)の象徴でもあるから、今でも人気なんでしょうね。

 

日本経済新聞:書評寄稿『ヒトはどこまで進化するのか』

  本日の日本経済新聞の朝刊に、書評が掲載されています。

style.nikkei.com

 対象本はこちらです。

ヒトはどこまで進化するのか

ヒトはどこまで進化するのか

 

  生物学の大家、ウィルソンが高校生向けに書いたウィルソン生物学の集大成。彼の提唱した社会生物学は、「生物学決定論だ」などと言われ、批判を浴びましたが、ウィルソンの立場は決してそうではありません。自然科学も人文科学もそれぞれ役割も方法論も違うけど、お互いに強みがあるから統合していこうではないか、という提案です。邦題は「ヒトはどこまで進化するのか」ですが、原題は"The Meaning of Human Existence" 。ヒトなる存在の意味に迫ろうと挑戦する本なので、原題のほうが内容に近いかもしれません。

 啓蒙主義の時代は、人文科学も自然科学も「自然哲学」という名で一体化していた。それが20世紀半ばから「二つの文化」と呼ばれるようになり、乖離していくようになった*1
 自然科学の知見は数多く得られ、人間がどのような存在なのかも、心理学や認知科学等でわかるようになってきた。ただ、自然科学で解明されたからといって、そう「すべき」と単純に考えることはできない。この「自然科学の誤謬」を、本書の解説で長谷川眞理子氏が丁寧に書かれています。

 そこで、科学的知見を取り入れつつ、人文科学がこれまで多様な発展を遂げてきたように新たな展開をしていくことが、ヒトの新たな進化であり、生きる意味ではないかとウィルソンは説くわけです。つまり、自然科学と人文科学の協働。

 書評にも書きましたが「自然科学は私たちを救ってくれない『冷たい』学問だと感じる人も、人文科学を『役に立たない』と考える人にも手にとってほしい一冊」です。

*1:本文中では触れられていませんが、C.P.スノーの『二つの文化』のことですね。

日本民間放送連盟賞/2016年(平成28年)入選作品:発表

 日本放送連盟賞(2016年)の入選作品が発表になりました。

表彰番組・事績 | 一般社団法人 日本民間放送連盟

 私は引き続き、テレビ教養部門の審査員を務めさせていただきました。最優秀作品、優秀作品は以下の作品です。

最優秀
『ノンフィクションW 撮影監督ハリー三村のヒロシマ ~カラーフィルムに残された復興への祈り~』 WOWOW
優秀
『廃校はアカン!~熱血“ホンマちゃん”、北星余市高に生きる~』 北海道放送
『SBCスペシャ長者原騒動記』 信越放送
『人生フルーツ ある建築家と雑木林のものがたり』 東海テレビ放送
和風総本家 日本という名の惑星・パラオ編』 テレビ大阪
『じいちゃんの棚田』 テレビ愛媛
『いのちを伝える~元食肉解体作業員の挑戦~』 熊本県民テレビ

 いずれも見応えがあり、初めて知ることも多く、教養部門に相応しい作品でした。おめでとうございます。

 個人的に一番印象的だったのは、熊本県民テレビの『いのちを伝える~元食肉解体作業員の挑戦~』でした。元食肉解体作業員の方が優れたコミュニケーターとして、「肉をいただくということ」だけでなく、自分たちの職業への差別という現状も伝えているという点。よく番組内で職業差別の問題まで切り込めたなあと。
 「食肉解体の仕事が差別されていると知らせることは、むしろ差別を顕在化させてしまうだけではないか」という(元)同業者たちからの懸念もあったみたいですが、差別があることを伝えなければ、差別の問題もなくならない。実際、少しずつではあるようですが、周囲の目が変わってきたと番組内でも語られていました。

 昨年も書いたのですが、地方局でこのような良作が作られているのに、一部の人しか見ることができないのはもったいない。有料でも良いので、ネット配信してくれると良いのにとつくづく思います。