【追記あり】再訪『二つの文化と科学革命』
- 作者: C.P.スノー,S.コリーニ(解説),松井巻之助,増田珠子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2011/11/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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私は、このスノーの主張は、科学を文化の位置に置こうとした功績はあるものの、個人的にはいささか弊害があると思っている。
- (自然)科学者と「文学的知識人」*1の間に境界線を引き、対立を生ませる土壌になっていること。しかも社会学とか他の分野は基本的に視野に入っていない。
- 科学を他の分野から切り離し、のっぺらぼうなものとして描いてている。
- 科学万歳が甚だしい。
- 話の進め方が乱暴(講演だから仕方ないのだが)。
とはいえ、スノーの指摘(異分野間の対立)があるのは事実であるからこそ、今も色々な意味で人気のある一冊なのだろう。
今回、再読してみたら、ステファン・コリーニの解説が最高に興味深かった。彼の「文化」に対する扱いのほうがよほどよほど納得できるよ。ここをてきとーに読み飛ばしていた自分が悔やまれる。というか、以前読んだときにはそこまでわからなかったんでしょうね、私が。
まず、解説で、スノーの「文学的知識人」に対する敵愾心が顕著であるということが指摘されている(コリーニだけでない。当時も、他の人からの指摘もあったようだ)。あと、科学に対する絶対的な信頼が、この「リード講演」の元になった文書に書かれているらしい*2。
この文章において彼が主要テーマとしたのは、集団としての科学者の「道徳的健全さ」が「文学に造詣の深い知識人」に勝っているという確信である。科学者は生まれつき人間の集団としての幸福と将来に関心があるのだと、彼は断言している。
このあたりの「確信」、すごすぎるな……。
その、リード講演の元になった小論は"New Statesman"誌に1956年に書かれたものなのだが、ネット上に掲載されている。
この中に、
About the whole scientific culture, there is an absence – surprising to outsiders – of the feline and oblique.
のような、ぎょっとするほどの科学および科学者賛美が散見される。
科学者出身で作家・評論家としても名声を得て、行政でも重宝された彼ではあるが「スノーの文章を読むにあたり、私たちはその起源を思い出し、彼が系統だった思想家ではなく、またある意味では取り立てて厳密な書き手でもないことを受け入れる必要がある」とも指摘している。のちに「Sir」称号を得た名士であるだけに、「彼が有名になるにしたがって、アイディアはますます壮大なものとなり、事実はますます少なくなっていき、文章はますます力強いものとなっていく傾向が見られた」とも。つまり、名士として偉そうなことを弱い根拠のもと言うようになった、と。
ただ、考えるに不思議なんですよね。「自称紳士階級である中流階級下層部と、かろうじて卑しからぬと言える労働者階級上層部の間のあの決定的な境界線すれすれのところで、何とか上の側をさまよっていた」クラスの出身者が、自然科学の研究者になる。で、「Nature」に「ビタミンAの合成法を見つけた」という結果で掲載されるが、のちに計算方法に間違いがあるとわかって結果を撤回して科学者を引退する。その後、作家として名声を馳せる。
どちらかというと、科学者としては失敗し、作家として成功したような彼が、科学に絶対的な信頼を置いて崇めて、文学的知識人に対して敵意を抱くって。作家の業界で何かあった? (当時)そう高くない階級から名士まで上り詰めるきっかけを作ってくれたのが科学であると感謝していた? まあ、こんな想像しても仕方ないので、知りたかったら彼の伝記読めって話ですね。
【追記】
1967版のに訳者の松井巻之助氏の解説でようやくわかりました。
これも英国階級社会が関係している。文化的知識人が特権階級にいて、科学はそうではなかった。だから「科学者経由の文化的知識人」として自分の陣営に斬り込んだのだな。すごいチャレンジャー。で、科学を文化の位置まで高めようとした
さらにスノーの出自と関係しているかも。彼もレイモンド・ウィリアムズのように特権階級出身ではない。階級社会で学問の流れが変化するというのは面白い。
まあ、スノーの本文よりも何よりも、解説のステファン・コリーニの文化に対するとらえ方は大いに納得だったし、そして解説の中でサイエンスコミュニケーションという言葉は使っていないものの、サイエンスコミュニケーションの必要性について言及していたのが収穫*3。