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内田麻理香ブログ:KASOKEN satellite

ブログというかお仕事日記というか身辺雑記というか。

『コミュニケーションとコミュニティ』レイモンド・ウィリアムズ著

研究 サイエンスコミュニケーション

 出版されたばかりの、レイモンド・ウィリアムズ「共通文化に向けて」の中の一節。

共通文化にむけて―― 文化研究1 (文化研究 1)

共通文化にむけて―― 文化研究1 (文化研究 1)

 ウィリアムズの論考のまとめ本。どうやら続刊として「2」も出るらしい。もしかして、彼、再注目されている? だとしたら面白い。

 さて、自分の研究に関係ありそうな「コミュニケーションとコミュニティ」に関係するところだけ感想を書いてみます。ただ、コミュニティに関してはほんの少しの言及しかなく、コミュニケーションとの関わりも書かれていなかったのでタイトルが内容を反映していません。基本的には、ウィリアムズのコミュニケーション論。

 あるアクターを独立させるのではなく、「コミュニケーション・システム」として論ずるのですが、「数少ない情報発信者が多数に向けて発信する」という構図から抜け出せていないのは残念。まあ、1961年に書かれたものですしね。

 面白いのは、そのコミュニケーション・システムを4つに分類しているところ。

(1)権威主義的方法
(2)家父長的方法
(3)商業的方法
(4)民主的方法
(1)権威主義的方法
 少数の支配集団がそれ以外の人たちに対し、「真実は既知のものだとする傲慢な仮説に基づいている。それは他者に伝達するだけですむというのだ」という彼の指摘通り、「偉い」人たちが我々は真実を伝えてやるからそれに従え、という無茶なコミュニケーション・システム。昔々にはあり得た形かもしれませんが、今はないでしょうねえ。もちろん、ウィリアムズはそれを批判している。

(2)家父長的方法
 彼の中では実はあまり権威主義的方法と変わらない。しかし、異なるのは、家父長的のほうは支配集団ではない大多数への認識だという。「遅れたもの」「子供の特徴の多くを有するもの」「恵まれぬもの」「多くの点で不運で準備の整っていないもの」とみなしている。つまり、発信者側は責任感を持って、情けを持って「知識のないもの」に対してコミュニケーションしているということになる。
 ……これ、いまのサイエンスコミュニケーションで言われるところの「欠如モデル」に通じるものがあるな。もしくは、教育・啓蒙。もちろん、ウィリアムズはこのシステムも批判しているのだが、権威主義的方法とは、発信者側に「恵まれぬ者への罪悪感」があるところが異なるという。その例としてBBCが代表的だとも述べている。

(3)商業主義的方法
 「市場が最高の導き手」であるとして、売れるシステムが良きコミュニケーション・システムという観点。もちろん、これも彼は否定。

市場の法則にしばられているために、いまや言論の自由が得られているというより、利益をもたらす方向でのみ言論が許されるものとなっているのである

という指摘は金言でしょう。
 これは、今のマスメディアのあり方にも通じる、と私も考えます。視聴率がとれる方向にテレビ番組が作られ、「売れ線」だけの魂を売ったような本だけが量産され、実際そればかり売れる。彼が批判した商業主義的方法が今も続いている、というか加速しているかのように見えます。
(4)民主的方法
 上記3つを否定したウィリアムズの考える解決法がこれ。マルクス主義の、ニューレフトの彼がここで「社会主義的方法」を出さない言い訳が書かれているところがかわいらしい。社会主義は「中央集権化や検閲」と結びついてしまうからだ、と。確かにその通り。
 彼の提唱する民主的方法は、受け手となっている人々も、発信者になりうるということ。文章も書けるし、芸術品も作り出せる。彼らの発表の場を作ることが公共の義務という。さらに、新聞・放送局・劇場に対しても提案する。一定期間でもいいから、使用許可を与えるのがよいであろう、と。
 ここだけ見ると、実効性がまるでない机上の空論のように思えるが。でも、インターネットの誕生で「ふつうの人」が発信者になることができる場ができた、権力関係が崩れるのではないかと騒がれたように、形は違うけれどもウィリアムズはある種の預言者だったかもしれない。
 ただ、ウィリアムズは世の中の人々を過大評価しすぎていたように私には思える。そもそも、誰もが表現者になれるわけではない。そして、結局皆に発信者としての場を提供しても、それが世の中を(インターネット登場の当初騒がれたように)大きく変化させたようには私には思えない。下手をすると、ネットは商業主義的方法を悪化させているシステムにも思えるし、単にお茶の間や居酒屋での戯れ言を発する公共の場として機能しているだけではないか? と悲観的な気持ちになることが多々ある。

 ただ「矢印」で表されるような一方向(または双方向的な)*1コミュニケーションモデルには発信者側に権力が生まれてしまうことへの指摘は、あの時代では慧眼だと思う。

コミュニケーションが大多数に語り、教え、導く少数者の仕事だという発想を捨てなければならない。

人びとを支配する方法、あるいは人びとから金をせしめる方法としてのみコミュニケーションに感心がある連中のイデオロギーを捨てなければならない。

*1:シャノンとウィーヴァー的な。