内田麻理香ブログ:KASOKEN satellite

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毎日新聞「今週の本棚」『2016 この3冊』 

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 平成28年12月11日(日)の毎日新聞に、書評員が「今年の3冊」を選ぶ恒例の企画に寄稿しました。今回は、どこの書評にも寄稿できなかった本(タイミングが合わず……などの理由で)を3冊選ばせて頂きました。

  有名人の違法薬物使用に関するニュース、カジノ合法化の議論など、依存症(アディクション)にまつわる話が世間を騒がせています。そのたびに、依存症者は「意思が弱い」「だらしがない」「快楽を求めているだけ」という眼差しが露わになっているように思えます。

 まず、そのアディクションとはどのような病なのか、という基本をおさえておくのに適切な入門書がこちら(今年出版されたの本ではないので紹介できませんでしたが)。

人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション

人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション

 

  その者が抱えるストレスやその苦痛を一時的にでも緩和してくれる薬物(アルコールやニコチンも)・行動(ギャンブルなど)の嗜好に出会うと、「有害性は認識しているにも関わらず」、自らの苦痛を自力で軽減(自己治療)するために繰り返し使用するようになった結果、依存症になる……というのが、自己治療仮説です。

 依存症になってしまうと、脳の回路など、既に心身が変化してしまっているので、自分の意思でやめようと思っても最早コントロールが効かない。だから、依存症者を責めても意味がありません(例えば、他の疾病であれば患者に対して「なんで病気になったんだ」と責めることはしないですよね。「自己責任」と言う人もいるようですが……)。

 ましてや、自己治療のための依存物(行動)であるならば、依存の対象を取り上げるだけでは、治療に繋がらないこともわかるかと思います。なぜなら、ストレスや苦痛が存在し続けるならば、「溺れている人から浮き輪を取り上げる」ことになってしまう。「このままでは死ぬ」「脳が萎縮する」などの脅かしも、たいして意味はないでしょう。自分を責めて自暴自棄になるか、下手をすると自死を選択してしまう可能性もある。依存症者の治療は極めて難しい。

 その自己治療仮説を一歩押し進めたのが、こちら。

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション

 

  依存症は、自分の持つ、苦しみを「相談する」「協力してもらう」など、人に頼って解消するのではなく、人を信じられないために「物」や「行動」に頼ってしまうからではないかという「信頼障害仮説」を提唱しています。臨床医である著者は、世間に流布する依存症者のイメージと、自分が接してきた依存症者があまりにもかけ離れていることに違和感を抱き、本書を著したと書いています。

 早期に「薬物はいけません」的な啓蒙活動をしても、事後アンケートをとると、薬物に抵抗感が薄い生徒たちがいる。それは孤独へのサインだということです。虐待など目に見えやすい機能不全家族の場合もあれば、一見何の問題がないように見えたとしても、見えない生きづらさを抱えている場合がある。それを著者は「明白な生きづらさ」「暗黙の生きづらさ」と二種類に分けています。

  そして2冊目、

アディクションと加害者臨床―封印された感情と閉ざされた関係

アディクションと加害者臨床―封印された感情と閉ざされた関係

 

  こちらは、加害者臨床の立場から、あらゆる事例の事例を「アディクション」の一種ではないかと見なし、複数の共著者がそれぞれの立場から論を進めていきます。

 例えば、ハラスメント。パワーハラスメントの加害者は、自己評価が低く、自分を肯定して欲しいがために弱者に対してハラスメントする。そのときは、鬱屈した自信のなさが晴れて気分が良くなるので、その結果、嗜癖行動となる。その嗜癖行動を繰り返しているのがハラスメントなのではという指摘は「なるほど」と膝を打ちたくなりました。このように、身近な事例もアディクションの一種かもしれないと考えると、加害者側にせよ、被害者側にせよ、「人ごとではない」と思えるようになるのではないでしょうか。

 このように一筋縄ではいかないアディクションの問題。刑罰による厳罰化など単純な方針では、解決にはつながらないことは、容易に想像つくかと思います。人間関係や社会の歪みがもたらしているが依存症であるならば、「これは本当に病なのか」という疑問さえ湧いてきます。

 依存症者、家族ほか当事者の自助グループも成果を上げていると思いますが、そこに新たな切り口の一つとなるかも? と私が思うのが、3つめに紹介した「オープンダイアローグ」です。

オープンダイアローグ

オープンダイアローグ

 

  オープンダイアローグは、フィンランド統合失調症の治療で目覚ましい効果を上げている手法です。日本では、斎藤環氏がいち早く注目し、オープンダイアローグの伝道師として活躍されています。この本は、斎藤氏が毎日新聞の書評でも取り上げています。

今週の本棚:斎藤環・評 『オープンダイアローグ』=ヤーコ・セイックラ、トム・エーリク・アーンキル著 - 毎日新聞

 オープンダイアローグは、患者と治療者だけという関係だけで閉じず、社会全体が患者を受容するという思想に基づきます。このとき、患者が「この病の専門家」になり、治療者が「患者という専門家」に話を聴くため、ふつうの専門家ー非専門家関係が逆転しているような形になります。患者が自分の病を治療者に取り上げられることなく、主体性を発揮した個人になるのです。

 だからといって、治療者が専門性を放棄するわけではない。むしろ、治療者はこれまでの専門性に加えて、「オープンダイアローグを遂行するための高い専門性」が求められるので、より高い専門性を身につける必要があります。

 オープンダイアローグは、(1)非専門家と見られていた者が、主体性を取り戻して専門家になる (2)専門家同士で対話する、という形なので、サイエンスコミュニケーションのひとつの理想形が実現したというように私は見ています。これが、今、課題が山積しているアディクション関連問題の解決の一助になるのではないか、と。

 もちろん、フィンランドで上手くいったからといって、日本に輸入しただけで同じように成功するとは簡単に期待できません。包摂するコミュニティをつくる、といっても、日本特有のムラ社会を復活させるだけでは、むしろ逆効果だと思われます(特に、アディクションが人間関係、信頼関係がもたらす病であるならば)。

 ただ、関係性の歪みがアディクションを生むのならば、多様な背景を持つ人々をコミュニティを何らかの形で創出することが重要だろうと考えます。