先日書いた古参と新参の - KASOKEN satelliteの続きみたいなもん。社会学出身の方に「やはりエスノグラフィーでは?」とアドバイスされたのですが、本を買ったが積ん読状態です……。
科学は素人である公衆にも理解可能(accessible)であるというこの考え方は、確実性と絶対的な真実を追い求める多くの西洋の学者にとっては、嫌悪の対象となる。彼らの見解は、中世ギルドのそれに近似している。一つの真実についての完全な理解をギルドの仲間にしか許さないことで、自分たちの知識を守った。知識は力であり、野放しにできないものだった。要するに、コミュニケーションは仲間うちでしか許されなかった。そこで交わされるのは、特別な用語と合図で、それらは公衆のためのものではなかった。
サイエンス・コミュニケーション―科学を伝える人の理論と実践
どうなんでしょう? 上の引用は、「科学者はサイエンスコミュニケーションを良いことかもしれないが、自分にとってはそうではないと思っているだろう」という話の流れなのですが。専門家としては、サイエンスコミュニケーションごときで、自分の専門分野の支配権を脅かすとまで普通は思わないじゃないかなと。専門家として成り立つための専門知はそうaccessibleではない。そんなことは、非専門家にもよくわかっている。
中世ギルドの例えだと、単に既得権益の確保のように思えてしまうな、と。
知識ではなく、特殊技能になるが。サッカー選手だって、サッカー普及によってまずはサッカーに対する世間の評価が上がって、注目されて、ファンが増える。そして結果として自分の活動がしやすくなる……というまずは良い方向の変化を期待するのではないか? 音楽もしかり。
「支配権」を脅かすケースは……。その分野がさらに知られるようになって、自分のライバルが出現してしまった場合。その分野のことを理解してしまった人が、結果的にその分野に好意的な視線を持たなくなってしまった場合。確かに普及・コミュニケーションの先として、それはあり得る。
分野の専門家自体がコミュニケーションを拒否するのではなく、私がより気になっているのは、その分野の古参のファンが壁になるようなケース。これを引き続き考えたいのだけど。たとえば、専門分野の知識とその知識を持つ人をリスペクトして守る、という構図か。それはわかる。でもなぜ新参を拒むのか? そのリスペクトして守る人が増えれば、それはハッピーではないか。
でも「今うまくいっている状態」を新参によって崩される可能性があるという恐怖はあるかもしれない。要はよそ者に対する得体の知れない恐れを「新参」に対しても抱くということか。
んーなんだか当たり前の話に落ち着いてしまう。今さら何を言っているんだ? 的な。
宗教は新参を取り込むルートができているけど、集団を守るしくみもしっかり担保されているし。プロとファン、古参ファンと新参ファンの場合には当てはめられなさそうではある。