内田麻理香ブログ:KASOKEN satellite

ブログというかお仕事日記というか身辺雑記というか。

知的好奇心は善か?

 友人とのメールのやりとりで「知的好奇心は善か?」という話になった。なんとも哲学的でとらえどころのない大きな命題ではあるが、自分らの仕事に対する問いかけに対して生まれたものだったりする。

昨年、拙著を出版した際、ある作家さんから愛ある(と、私は勝手に喜んでいる)書評を頂戴した。そこに書かれていた「スジのよい好奇心」という言語センスがさすがだと印象的だったのだが、それに対する答えをもやもやと考えたがまとまらずにいた。でも、ここ数日でなんとなーく何かをつかまえかけている気がするので、一応文書にしておく。

「好奇心は善か?」との問いに対する答えは「善ではないだろう」。私自身は、好奇心あるとおもしろいよ、楽しいよ、とは素直に思ってはいるが、だからといってそれが「尊いもの」とは考えていない。

好奇心自体は「ね? 素晴らしいでしょう! 皆さんもご一緒に!」と胸を張って言えるたぐいのものではなかろう。むしろ、後ろめたい原始的な感情ではないだろうか。好奇心は、野次馬根性で、おせっかいで、はた迷惑な存在だ。子どもが無邪気に発揮する「好奇心」を見ていてもわかる。知的好奇心を母として生まれる、自然科学もまた同じだと感じる。「自然のヴェールを上げる」という上品な言い方をしても、行為としては品がない。

そして「スジの良い好奇心」という言葉に戻る。

科学技術者はおおむね好奇心は強いが、スジがよいとは限らない

とおっしゃるが、これは確かに同感。そして、私には自然科学のそのものが「スジが悪い」存在のように見える。つまり、スジの良い自然科学というのがわからない。

先住民科学と西洋科学は社会的なゴールが違っている。自族民の存続を目的とするのか、それとも、知識それ自体のために、また「自然」や他民族を支配する権力のために、知識を得るというぜいたくを目的とするのかという違いである。また、知性のゴールも違っている。「神秘」を服従することによって自然界の「神秘」と共存するのか、「神秘」を説明しつくすことで「神秘」を根絶するのか。

サイエンス・コミュニケーション―科学を伝える人の理論と実践


 マスター・キートンを思い出す。西洋科学である考古学をやっているキートンであるが、一貫して現地の作法を心得て尊重している。自分の学問がそもそも図々しいという「原罪」に自覚的だからなせる行為ではなかろうか。

世界中には、よそ者が、ズカズカ
踏み込んじゃいけない
場所がたくさん
あるってことです……

MASTERキートン (1) (ビッグコミックスワイド) 「黒と白の熱砂」


 氏が提示された「スジの良い好奇心」という言葉から離れているかもしれない……。

 私の中では、好奇心はすべからく、基本的に下世話であってそこに違いはないと思う。そこに一線を引くスジの良さ、はひょっとしたらその下世話さに対する自覚と謙虚さかもしれない。

 まあ、サイエンス・コミュニケーションが鬱陶しく、押しつけがましくなる一因には……。知的好奇心を発揮して初めて成り立つ自然科学を、後ろめたさを感じず、ひたすら天真爛漫に「科学って素晴らしい! 素敵!」*1と吹聴することにあるのではないか?

【追記】

僕は、知的好奇心は、世代を超えて広まる感染性もある一種の病のようなものとも思う。知的好奇心という病への囚われびと、としての研究者。別にそれでいいではないか、と思う。

同じ題材でも考えていることの深さが違うわ、と。

*1:ああ、要するに某所のサイエンスシリーズ(私が関わった)のキャッチコピーではないか、これは……。